都市とは電車の事である。

この数年を振り返って、ちょっと書いてみたくなったので。

大阪から和歌山へ移動して、週末はずっと和歌山で過ごすという生活を二年、和歌山で暮らす事を半年。
その過程の中で感じたことは「都市とは電車の事である。」ということです。
田舎に行くほど、車が必要になる。車があれば、まぁ都会の便利さの6割は得ることができる。だから都市ではない所では「車があればそれでいいじゃん」ってなってる。

まぁ若い人はそれでもいいのだけれど、年寄りにはあまり便利な環境とは言えない。何せ、いくら運転免許証を持っていても「もう年だから危ない。やめなさい」とか言われる。

それでも、ユニクロだの、ミスタードーナツだの、地方のスーパーだの、なんだってかんだって道路沿いにあって、若い人はそれで困らないから、それでいいと思っている。

都会と田舎で違うのは、要は「プライベート」ということなのだ。

都会人はプライベートな話をするために喫茶店を使う。会社でのもめ事を、上司が部下をさとすために使ったりするのも喫茶店だ。

でも、田舎は違うよ。喫茶店でプライベートな話なんかできない。誰が聞いてるか分ったもんじゃないから。

なら、プライベートな話はどこでするのか? というと、これが車の中なのである。まったくのプライベートだわね。

都会人は「ひとり」である人間が「ひとり」である事そのままで、公共の場である喫茶店で「ひとり」でいられるわけです。ここが違う。

で、年末東京出張が多くて何度か東京に出かけたのですが、東京は違うね。地下鉄の最低区間の運賃が、たったの130円です。
安いなぁ。

大阪の地下鉄なんて200円ですよ。特別一区回数券っていうのがあって、一区(最低区間)でしか使えない回数券が12回綴りで2000円。約166円かな? で、これが一番安いわけです。

東京の安くて便利な地下鉄は、ものすごい数の人がいてるからこそ成り立つ訳です。これこそが都会というものだと思うのです。みんなが使うものを社会資本として、「世の中の財産」として、キチンと運営できている。これこそが「都会」なんじゃないだろうか。

そこには見ず知らずの人への、「同志」としての暖かいまなざしがあると思う。
仮に意見がまるっきり反対でもいいのだ。仕事や生活の上でいがみあっている関係でもいい。
それでもどっちにとっても電車は必要だし、安く運営できるに越したことはない。
で、それができるのが「都会」ってことなんだと思う。
敵から見ても味方から見ても便利なもんは便利。ありがたいものはありがたい。そういう感じ。

地下街を歩いていると、どんな世代の人が、いまどんな表情で、どんな生き方をしてるのかとかが実感としてわかる。世の中の「大きな動き」みたいなのがわかる。
多分、ここが「都会」の本質なんだと思うんですよね。
車の中にこもっているんじゃない。ちゃんと空気を共有しているわけです。で、それこそが「都会」なんだろうなと思うのです。

でも、大阪に戻ってきて、知り合いと、ちょこちょこいろいろ話していると、どうも話の合わない時があって、なんだろうな? と思うと、大阪に住んでいるのに電車に乗らないって種類の人がいてると気づいたわけです。
バイクとか車で移動してるんだよね。
なんか田舎臭いんだよなぁ。言ってる事が。田舎の発想とすごく似てる。中間のサイズの発想がない。敵にとっても味方にとっても大事なものは大事とか、そういう部分がごそっと抜けてる。そういう感じがする。そういう「感覚」には、なんかちょっと抵抗を感じる。

でも、人間、自分の「知っている事」に関しては敏感になれても、「知らない事」には敏感になれないんだよね。だから、車に乗って、電車に乗らない人には「みんなの電車」っていう事の大切さが、もともとわからない。社会性がない。だからいくら言っても、それは分らないわけです。車という「バラバラの個人」のうら寂しい風景の中でポツネンと立ちつくしているようにしか思わないんだけど、当人はそうは思っていない。

だから、大阪に住んでいて電車に乗らない人には、なんでわざわざ「田舎人」を大阪でやってんねん。という気になってしまう。
家族という見方と、国家という見方の間に「我々ひとりひとりが参加しているパブリック空間としての社会」みたいな単位がごそっとないわけですよ。中間がない。みんなが一緒に生きているという感覚が希薄だ。

なんかそういう事をひしひしと感じるんですねぇ。
「名前のない誰か」であっても便利快適に使えるシステムや空間みたいなものが大事だよね、というような、そういう敵でも味方でも使える価値中立性みたいなことが、どうにも理解してもらいにくいように思うわけです。

で、それを一言で具体的な単語で言うなら何か? というと結局は「電車」というのが、一番わかりやすい気がします。

田舎には電車がないんですね。

和歌山で言うと貴志川線というローカル線が、法律が改正されて、岡山の両備グループへ経営譲渡されました。こういうローカル線って、いま本当にどんどんなくなっていってるらしいんですが、電車が地域の要になってるというのは大きいと思うんですね。本当はなくなって欲しくないわけですよ。でも、若い人はみんな車で移動してるし、「まぁいいか」とか思ってる。いいのか? 本当に。

大事な事はその線路が広く日本全体に続いていて、「みんなの共有物である」と、みんなが思える事なわけですよ。
これがバスだと、あくまで地域交通ということでしかないし、道路整備さえされていたらいいのだから「社会の事なんか知らない。俺が、私が使いやすい道ができたらそれでいいんだ。」というマイカー族が利用の中心になってしまうんですね。

でも、どうも、マイカー族には社会の概念が、「個人のもの」と「国のもの」みたいな極端な二分法でしか存在してない感覚を僕はとても感じます。

間の中間的なサイズの社会参加意識が希薄なんだよなぁ。なんか。そこはすごく嫌なものを僕は感じてしまうのです。

で、それはやっぱり電車を使ってないからだよなぁって僕は思う。ほんと。

でも、逆もまた真なりで、都会人は田舎人の事をわかってないところも多い。もの凄く多い。

いま、痴漢えん罪事件をテーマに据えて、司法の腐敗(本当の意味での腐敗だと思うのですが。)を描いてる映画「それでも僕はやってない」を上映してますが、この映画なんて、どうしようもなく「都会」の映画ですよね。多分、田舎人には、この映画のテーマの重さなんかさっぱりわからないんだろうと思う。
大阪と東京くらいでなら強い支持を得られるんだろうけど、田舎じゃ無理だ。というか、最初から興味すら持ってもらえないし、見てもらえない。でも、これだけ重要なテーマの事を、多分都会人には伝えられても田舎人には伝えられないという事が、悲しいかな都会人には見えない。田舎には電車自体がないんだよってことが実感として体に入ってない。なんか分断されてしまってるよなぁ。

そこが、いま、この国のかかえてる、一番大きな問題なのかも知れないですね。
構造的には、田舎に電車が走る可能性は、まぁ、もうないわけで、そういう意味では状況は絶望的なのかも知れませんが。

ただ、何にせよ、「日本全国」というような大きな規模の動きを考える時には、電車文化と車文化の両方が混在していて、それをつなぐ仕組みこそが大切なんだろうな、くらいは頭を回さないといけないように思います。

みんなが幸せになりたいというのは、みんなの願いなのだから。
ようは、そういう事だと思います。