真実の願い。

この「こころめくり」をはじめた当初から、自分でも疑問というか、わからなくて困っていたことに「自分の真の願いは、一体何なのか?」という事があります。

あなた、わかってます?
自分の「真の願い」。

分らないですよね?


これねぇ、わからないのが当たり前だと思うんですよ。自分の願いほど、不明確なものは他にないと思う。
だって人間は生きていますから。

人間が生きているということは、「動く」という事です。
「動く」というのは、物理的に場所も移動するのですが、抽象的な「立場」の違いというのもあります。

たとえば、単純に言えば、「年齢」などという立場の違いもあります。
若いときは革新的な事にばかり興味が行くし、逆に年を食えば保守的な考え方の安心感の大切さにも気付くというような事です。

そのほか、ありとあらゆる「考え方の変遷」というものがあり得るわけで、実は「望み」というものは、その時々で変ってしまっているわけです。
基本的に、根本的に、全然、まったく違ったりする。

で、困ったことに「願い」の成就の度合いというものにはそれぞれに「長さ」というものがありまして、短時間で願いがかなうものもあれば、長期間時間が必要なものもあります。

そうなると、願いそのものに矛盾というものが生まれることもあるんですね。
具体例はいまパッとは思いつきませんが、まぁそういう事はあり得る。

で、そういう矛盾に直面したときに幸せに生きるなら、自分の考え方をパッと変更してしまわないとダメな訳です。
だって人は生きているわけですから。
常に動いているのが実相なんですから。

だからパッと変える。哲学の根本から変えてもかまわないわけです。
で、そうして「変える」という事に躊躇しない自分というものを鍛えておかないと、頭の固い、老化人間になってしまうわけです。

ただ、これをあんまりやりすぎると、ものすごく軽薄に見えてしまうし、回りからも「ころころ意見が変りすぎだ!」と批判を浴びることになります。
それに、自分でも「あまりに軽薄すぎるのではないか?」と嫌悪感が出る可能性もあります。

でもね。大事なのは、「なぜ考え方を変えたのか」という説明なんです。そこがキチンと説明できるなら、別に変っていって恥ずかしいことはない。変るという事は成長でありまして、それはおおむね、良いことなんです。

軽佻浮薄と自分なりの成長というものとに違いは、ようするに「変ってしまった事に対する説明責任」が果たせるかどうか、なわけです。
そこだけが違うんですね。

その説明責任が果たせるのなら、それは「軽佻浮薄」なのではないわけです。
そして、その「自分なりの考え方」が、どう変ってきたか=成長したか、こそが、人間個人の生き様そのものなわけですよ。
変る事が「成長」になるのは、要するにその説明責任が果たせるかどうか、ということなわけです。

僕はまだまだ、「説明責任を伴った変化=成長」は、それほどキチンと体験しておりませんが、それでも多少の変化は経験していて、その変化についてはキチンと説明できるよな、とは思うのです。
ここは非常に重要だと思うのです。
ようするに「何故変ったのか」を回りに納得させることができるかどうか、なわけですからね。これができてはじめて「大人」なわけで。

ともあれ、そうして「変る」という事を自分なりにやっていくと、今度は「真の願い」というものが良くわからなくなってきてしまうんですね。
環境、状況が変れば、望みも変って当然なんですけども、そこでどうしても過去の栄光や夢にひきずられてしまう人も出てくるでしょう。

そういういろいろなバリエーションはあるものの、ですね。

変ってきた自分の願いそのものを、これまた客観的に把握して、5年、あるいは10年という単位で、「変らず」自分の中にある想いであるとか、「望み」であるとかを、抽象化して引き出せれば、それこそが普遍の「望み」なのかもしれないな、という気はしてるのです。

そういう事を、少し考えたいなと最近は想っているのですが、うーん、この話って、あまりに抽象的すぎますよね。何のことだかさっぱりわからない。

うーむ。

でも、いま一番気になってることなので、そのままUPしてしまおう。

ま、そんなことで。