怒りと変化。

長い間、身の回りの人間に腹を立てたり、イライラしたりすることが多くて、なかなか平穏無事な心持ちになれずに来たのです。
でもしかし、最近は人間というものの見方が変って、少しはマシになりました。

最近思うのは、「変化するのは難しい」ってことですね。

僕はずっと「勉強しない人」に、すぐイライラする傾向が強かったんです。人として成長するのは当たり前。日々前向きに努力して、学習するのが当然だって思っていて、そういう勉強をしない人が許せなくなってしまってたんですね。

でも、わかってきたのは、「許せない」と思う心は、ようは「自分を許せない」という心なんだってことなんです。

「今日は、面倒だし勉強したくないなぁ」って思う心が自分の中に出てきた時に、それを否定して、無視してるわけですよ。

それは良くないですよね。ストレスがたまるばかりで、それこそ勉強も進まないじゃないかって思う。

でも、やっぱり休みたがる自分を愛せていないんですね。ようは。

そこがわかってくると、「勉強しない人を嫌う自分」っていうのがまた、「成長出来ていない、変われない人だ」ということになってくるわけですよ。

結局ね、成長するってことは「変る」ってことなんです。そして、勉強しない人から勉強する人に僕は変った訳ですけど、でもそのために「勉強しない自分」を否定しなければならなかった。

それはどういう事かというと、単にコンプレックスの裏返しにしかすぎないわけだから、つまりは変ってないのと同じ事、だったんです。

勉強しない自分もオーケー、勉強する自分もオーケーにはなってない。心のキャパシティに変化がないわけですよ。

心のキャパシティを大きくするという、そういう変化は起こせていなかったわけです。

で、この「勉強しない人にイラつく」というのは、まさに「心のキャパシティを広げられない辛さ」なのであって、それは「変化できていない自分に対する焦り・怒り」だったのだ、ということですね。

これでわかることは、変化するってことは、誰にとっても辛いんだってことです。早々簡単に変ることなんかできゃしない。僕も勉強しない人から勉強する人に変ることはできたかもしれないけれど、それは同じ形のツボの表面をペンキで塗り直して「変りました!」と言ってた程度のことなんですね。

まったく新しい大きな器を作った訳ではないってことです。
だからやっぱり、人間は変ることは難しい。

なのに人は、どうしても、身の回りの人間に「あの人がこうであってくれたら僕だって変れるのに」とか思ってしまう。

いや、それは難しいんだよ。やっぱり。変るのは難しい。だからそれは許すしかないんだと思う。それを許せないのは、変ってない自分を否定することでしかない。

人間、やっぱり、なかなか変れなくて、それでも変ろうとなんとか努力して、それでもほとんど変化がなくて、その変れていないことにイライラする事もあるけれど、そこはグッとこらえて、変れないこと自体を愛するってならなきゃダメなんだろうなと思うのです。

それが自分を愛する事だし、その自分を愛することがキチンとできれば、身の回りの人をも、同じように愛することができるはずでね。
その時にはじめて、むこうもこっちも含めた「変化」が自然に生まれるんじゃないかなって思う。

あー、ダメだなぁ。今日の日記は、ものすごく抽象的でありました。まだ整理できてないんだな。
また書きます。

ではでは。