成長するというのは「変わる」ことだ。

11月8日に「ああ、この事を書きたい」と思ったのですが、どういうわけか、その日には、パソコンの前に座ると、何が書きたかったのかわからなくなって、書くのをやめてしまいました。

ということで、ちょっと書きます。


「成長する」と言うことを、みんな気楽に口にしてしまうんですけど、本当に成長するっていうのは、けっこう残酷な事だと思うんですね。

というのは、いろんな成長が世の中にはあるでしょうけど、成長することは、事実として、人間が「変わる」ということだからなんですね。

考え方が変わるから成長するわけですし、成長したからこそ、それまでとは異なる視点から物事を見ることができるわけです。

でも、これを成長しなかった人の立場から見てみると、単に「あいつは人が変わった」という悪い評価にしかなりません。しかも成長しなかった人というのは、ようするに「新たな知識・情報」に欠けているわけですから、その「成長して変わってしまった人」の考え方の変節の理由というものがまったく理解できないわけです。

世の中には「変わらない大切さ」と「変わり続ける正しさ」の両方があって、そのどちらも正しいとは思うのですが、意外に「成長する人と成長しない人の間にある大きな溝」というもにには、触れられていないように感じます。

たとえば、未開の村に文明人がやってきて、ライターを使っているところを未開人が「魔法だ!」と思ったとします。

魔法使いとして、あがめたてまつられた文明人が謙虚さを失って歓待されることに慣れてしまったとしたら、これは未開人、文明人ともに成長なしです。

未開人のうちのひとりがライターの仕組みを学習するとか、あるいは文明人の中のひとりがたかがライター一個で豪勢な食事や宿をあてがわれて平気でいてるのは礼節に反すると気付いたりしたら、この人間は「成長した」と言えるでしょう。

成長したことは確かなんだけど、でも、おそらくその成長は、未開人たちの文化にとっても、文明人の文化にとっても、「憎むべき変節」にしかならないと思います。

未開の人にとって、ライターの仕組みは、おそらく「魔法」のままであるほうが、自分たちの文化を変えずにいられて「ラク」なはずなのです。

文明人にとっても、ライターを付けるだけで「偉大なる魔法使い」をもてはやされているほうがラクで楽しいに決まっているのです。

だから、どちらの文化にとっても、「成長する人」というのは邪魔者扱いされるし、とんでもない変節漢という話になってしまう。

「あいつは変節漢だ!ひどい奴だ!」と非難するのは簡単だし、その気持ちはよくわかるのですが、これをひっくり返して「成長してる人間」の側の心情からしたら、たまらないものがありますわな。成長している側の人間は「より良い価値」に目覚めていて、それを、「自分たちの文化の中」にこそ伝え、広げたいわけですから。

仲間にこそ、「より良い価値観」を伝えたいし、理解してもらいたいのに、どうしてもそこが伝わらない、ということになります。
これはねぇ、精神的に、けっこう辛いものがあるんですね。

だから「成長することは変わること」である訳なんですが、それと同時に「成長することは身の回りの人間から裏切り者とそしられること」になる可能性も、低くはない、むしろ多いということを自覚してないとダメなわけです。

だからたとえば恋愛でケンカした場合というのでも、それはもしかしたら、どちらかの人間が成長の階段を一段登ったから起きたことなのかもしれないわけです。

だから、あたりまえのことですが「成長するということは考え方や生き方を、大きく変えてしまうものなのだ」ということを、本当に肝に銘じておかないといけないんですよね。

んー、ほんとうは具体例をいろいろ書きたいところですが書きません。

というのは、こういう事って成長したことのある人にとっては言わずもがなの話であり、逆に成長しなかった人には、一切まったく理解できないものだからです。反発されるだけということのほうが大きいですから。

ま、そんなことで。