正しい人間なんかいない。

前に、怒りについて、ここで10月15日の日記、
怒りっていったい何?
に書きました。

読んでいただけばわかりますが、要約すれば、「怒りと反省は同居できない」という話でした。

で、そこからまた、一歩先に考えが進みました。


なぜ怒りが湧くかと言うと、ほぼ間違いなく「私は正しい」と思っているからなんですね。このあたり、ほんとうはその一歩手前に「自分の感情のごまかし」があるはずなんですが、そこの話は難しいので、またの機会にゆずりますが、とにかく「怒り」があるとき、人はまず間違いなく「私は正しい」と思っている。

「正しい」と思っていなければ、「怒る」ことなんかできないからです。

前にも書きましたけれど、反省と怒りは同居できないからです。

でもしかし、この「反省と怒りは同居できない」というのは、僕にとっては大発見だったのですが、怒りのコントロールには、いまひとつ大きく役に立たないなというのがあって、またいろいろ本を読んでいたわけです。

その読んだ本の話は、またしっかりするとして、今回思い至ったのは、

「完璧な人間などいない」

という当たり前の現実でありました。
つまり、

「この世に正しい人間など、一人として存在していない。」

ということなんですね。


完全な人間を100%とすれば、5%くらいの正しさがあれば、もうすでに完成された人と言って良いのかも知れない。


で、だからこそ、人は他の人の5%の正しさをみんなでかき集めて、協力しあって、10%、20%にしなくちゃいけないってことなんだろうなってことなんです。

「正しいわけなんかないのだから、より正しいに近づくようにしないといけない」

ってことでしょう。

「群盲象をなでる」ということわざがありまして、しっぽをさわった人は「細い生き物だ」と言い、肌を触った人は「堅い肌の生き物だ」と言い、鼻を触った人は「蛇のような生き物だ」と言い、同じ生き物を触っておきながら、意見を違えてしまう、視野の狭い人への戒めとして使われてます。

でも、じゃあ最初から象を触って象を知る人がいてるかと言えば、そんなスゴイ人なんか、この世に一人だっていやしないのだ、ってことです。そういうことに僕は気付いてしまったということなのかも知れません。つまり「完璧を知る人はいない」という事です。


それでも、しっぽを触った人の意見と、肌を触った人の意見と、鼻を触った人の意見を重ね合わせれば、象の全体像には、わずかながらでも近づくではないか、ということが大事なんだと思うのですよ。

それを続けていれば、いずれは「象」を知る事ができるようになるのかも知れない、ということですね。だからこそ「象をしっぽと言う人」と「象を岩肌」と言う人が言い争いをしたり、怒ったりしてはいけないのだろうと思うのです。怒らずにコミュニケートしなければいけない。

なんかね、人と人とがつながっていて、ちゃんと象を触った人同士がコミュニケートすれば「象」に近づくこともできると思うのですけど、インターネットが広がった今では、象を触ることなく「象とは尻尾の事だ」だけがコピペコピペでどんどん広がっているだけというのが、僕はなんだかとってもおかしいと思うし、そこで「象」に近づくためには、どうもインターネットが大事なのではないって気がするのでありますよ。

とにかく、人はつねに間違っているし、必ず間違うし、いつも間違っている。正しい瞬間というものは一切なくて、それでも、「より正解に近づく」という努力はしていかねばならないってことのように思うのですよ。それをしていれば「怒り」に囚われることはないのではないか? という気がしてきてるのですね。

「正しい」と思ったその瞬間こそ、自分が「つねに間違った存在である」事を忘れた瞬間で、その瞬間に「怒り」が心をむしばむのではないか?
そういう考えに、私の小さな無力な脳みそは届いたように思います。

まさにその瞬間、人の成長は止まっているんでしょうね。「いるんでしょうね」というのは、その「正しさ」の中にいるときは人は決して反省はしていないからです。そして怒りと反省は同居できず、反省しないものに成長はあり得ないって事になるわけです。

だからやっぱり、人はつねに間違っていて、正しい選択など一度たりともしたことがないのだとキチンと自覚することだろうと思うのです。
いままでに一度だって正しい選択をしたことはなかった。つねに「より良い選択肢」は存在したのだ、と思うのです。

こういう風に書くと「いつもいつも反省しているなんて息苦しい」と思うかもしれませんが、逆に言うなら、「間違ってもかまわない。間違うのが当たり前なのだから。」という心の軽やかさを感じることもできるはずなのです。

そんなこんなもひっくるめて考えると、やはり

「人間はつねに間違っている。常により良い選択肢はあったはずなのだ」というのは救いであり、怒りを乗り越えるうまい考え方になるように思うのです。
前に書いた「怒りと反省は同居できない」より一歩、考えが深まったように思うのですね、私的には。

「より良い選択があり得るとする限り、人間は常に間違っている存在である。」

うむ。なかなか良いですな、この考え方は。