怒りは「猛毒」だそうです。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

前々から「怒り」のコントロールがうまくいかなくて困っておりました。
理不尽な扱いをされたり、コミュニケーション相手が怒ってたりすると、どうしてもこちらも怒ってしまって、それが抑えられなかったりするわけです。

でも最近読んだ本で、その「コントロール不能感」を、大きく低減できる考え方に触れる事ができました。


それが、この本「怒らないこと」

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

です。

前々から、「怒り」をどう扱うかには困っていて、人によっては「怒りこそが戦うパワーだ」という人もいてたりするので、「必要なもの」と考えていたんですが、この仏教の入門書では、その部分を完全に否定して、怒りの感情そのものが悪なのだと規定してるんですね。


いわく、「怒りは猛毒である」ということなんです。


少し極論に聞こえるかも知れませんが、自分の経験を顧みるに、怒りを「猛毒」として注意深く扱う方が、現実的には物事がうまく運ぶように思えます。
実際、「怒り」にとらわれていると、物事の判断が甘くなったり偏ったりしがちですし、良い発想も出にくくなりますし、怒ってる間は同じ事を何度も頭の中で繰り返し考えていて何の発展性もないんですね。


何より重要なのは、その「怒っている時間」は、自分にとって「幸せでない」という事です。怒ってる間は「自分が不幸」なんですよ。
だから「怒り」はすべて「なくす」ようにしなくてはいけない。


この「なくす」という考え方が、非常に重要でして、「怒りを抑える」では、まったく意味がないわけです。「抑えて」しまうと抑圧されて、よけいに「なくし」にくくなる。


「怒りは抑えるものだ」と考えてしまうのは、「怒りは必要なものだから、力は残して、コントロールしよう」という発想なわけですが、ここが怒りのコントロールを難しくしてしまう根本的な、捉え方の過ちなんだろうと思うのですね。
抑えただけでは、消えていないから危険なだけなのです。
怒りは不幸そのものであり、猛毒なのだから、「なくす」「消滅」させなければいけないって事なんですね。


ここのところが論理的にすっきりしてなくて、僕は困っていたし、混乱していたんだと思うのです。やはり「怒り」そのものは、なくすべきものなのですね。
たとえば、ストレスの発散に車の運転をしてスピードを出して気晴らしをするとかも、本来的には間違いなのだと、この本では説いています。怒りのコントロール法の本などでは、こういうのが多いんですよ。いわく「誰もいないところでクッションをなぐって気晴らしすればいい」とかです。

でも、それも間違いだと、この本では説いていますし、僕も間違いだと思う。それは「怒りの再生産」であり、「怒りの拡大」であり、「抑圧された不満の増大」でしかないと思う。そうではなくて、怒りそのものを「なくす」、消滅させる事こそが重要なんだと思うのですね。

もちろん、すべての出来事がこの考え方だけで説明がつくわけではないのです。たとえば、あまりに理不尽だと思えることなどには、正しく自己主張して、正当な権利は得なければなりません。そういう自己主張は当然の権利なのだから行動し発言しなければならないのですが、別にそれを「怒り」とともに行う必要はないわけです。

そういう時は、怒りを交えずに「私はこうして欲しいです。」と心穏やかに主張すればそれで良いわけです。
実際、多くの場合、こういう主張を「怒って」行う必要はサラサラないわけです。心穏やかに主張したほうが意見として通りやすくなるくらいです。

しかし人間というものは視野の狭いもので、完璧な人間など存在しているはずもないのに、「私は正しい、あいつは間違っている。」という前提からスタートしてしまうので「怒り」がどうしても生まれてしまうわけです。


それと、その「主張すべき時にしなかった」場合も、怒りになりやすいなと、この本を読んで思いました。自分の表現力のなさによって自己主張ができなかった時には自己主張できなかった不満が抑圧されてしまって、それが「怒り」に転化してしまう時が往々にしてあるように思います。
アダルトチルドレンの問題は、まさに子供の頃の「不満の抑圧」が怒りに転化してしまった典型だろうと思います。自分の感情のつながりが論理的に整理されていない状態ですね。だから、何か特定の「悪」に対して異様に腹が立ったりするとかになる。そのくせ、なぜ「怒りの感情」がわき起こっているのかは、自覚できていないとかですね。


どうも、必要以上に立腹してしまうとかの感情の変異は、子供の頃の経験に原因があることが多いようです。子供はつねに「表現力不足」ですからね。欲求不満になってしまうことも多いと思いますし、自分の「感情の歴史」の中で、スタート地点がゆがんでしまているというのは、往々にしてあることだろうと言う気がしています。

それともうひとつ注意したいのは、40を過ぎると、「感情の固定化」が起きやすい、ということでしょうね。つまりは「老い」でして、怒ったら怒りっぱなしというのは、感情の切り替えスイッチが錆び付きはじめているという事でもあるようなのです。

「頑固ジジイ」などと言う言葉がありますが、あれなどまさにそれで、「感情の切り替えスイッチが鈍っている」という視点をキチンと持たねばならないなと、いまは感じております。
この感情の切り替えスイッチの話しは、いま読んでいる、

人は「感情」から老化する―前頭葉の若さを保つ習慣術 (祥伝社新書)

からの受け売りです。
この本も、またキチンとレビューしたいですね。まさに、この「こころめくり」というブログを立ち上げるに際して意識した「40代の心の危機」というテーマそのものに関する重要な書籍だと思いますので。

とりあえずそんなことで、「怒りは猛毒である」と、とりあえずは考えておくこと。それがとても重要だと思っております。