失敗するのは良いことだ。

最近、「失敗」について考えることがありまして。

少し前なら雪印。最近だと不二家になりますが、どうして失敗を隠してしまうのか? という問題です。

そこには、「失敗はあってはならない」という考え方がはっきりと見えますよね。


でも、しかし、失敗を「あってはならない」としてしまうと、成長はありえなくなるんですね。

なんでかというと、成長するのに必要な「練習」が出来なくなるからです。「練習」というのは何かというと、「成功するまで失敗し続けること」なのだから、失敗があってはならないと考えてしまう考え方は、一切の成長を否定するのと同じ事になってしまうのですね。

●失敗してはならない
●つねに正しくあらねばならない

などの考え方は、道徳的には立派なものだけれど、それだけでは成長することは不可能なわけです。

現実問題として大切なのは、

●失敗から学ぶ

ということでして、これなくして成功などあり得ないんですね。
で、これ、自分でも思うんですが、

自分の失敗はいつもパターンが決まってる。

ものなんです。

最近の僕の事例で言うと、彼女との破綻。
これがまぁ二年半という期間を経ての失敗だったのですが、この2年半という数字をよくよく考えてみると、最初に勤めた会社や、その次の会社など、それぞれの会社での勤続年数と同じなんですね。
で、その年数の間に、自分の中に、ちょっとした「不満」がたまっていたのに、その「不満」の解消(問題の直視と、解決行動です)を行わなわずに不満を「抑圧」して失敗した、というのが共通しているんですね。

なので、問題は相手にはなくて、僕の側にある。つまり、自分の不満を正しく伝えて、問題を乗り越えるという事を避けるという失敗をし続けていた、ということなんですね。
だから、失敗をキチンと見つめて今後の対応策をキチンと立てないと、自分が成長しないということでもあります。

最近、知り合いの誰かの日記か、そのコメントで読んで、「あ、なるほど!」と思った言葉に「違う問題に、同じ解決法で対処しようとするのは『異常』なのである。」というのがありまして、これは本当にそうだなぁと思うのです。

私の場合で言うと、仕事の問題にせよ、プライベートの問題にせよ、不満が出てきた時に軽やかに自己主張することができずに「抑圧をする」という、同じ対処法でなんとかしようとしていたわけです。

冷静に考えたら、そんなアホな事はありませんわなぁ。
ドアが開きにくいという問題と、部屋を出る時に忘れ物をするという問題では、解決方法は全然違います。
そんな小さな問題でも解決方法は違うのに、なんと私は、仕事の問題も、プライベートの問題も、どっちも同じ「抑圧」で対処しようとしてたわけです。
そんなん、冷静に考えると「異常」ですわね。それは。

でも、こういう事を気づくためには、まず何より「失敗してもかまわない」「失敗なくして成功はない」「練習をするというのは失敗をすることである」という考え方・感じ方・受け取り方が、キチンと身に付いてないと、なかなか難しいわけですね。

やっと最近ですわ。それが身に付いてきたのかな、と思う。
たぶん、ウクレレの練習が大きいんだと思うんですよね。とにかく失敗をしてもいいから、一曲分の譜面を最初から最後まで弾き通してみるというような練習ってのが大事なんですね。失敗したところで止らない。失敗したまま進める。
そうしないと、ダル・セーニョとか、譜面のつながりの確認もできないし、リズムを取る練習もできないわけで、いちいち「失敗した部分」にこだわってられないんですよ。

失敗と言っても、譜面全体の中の部分として捉えないと、失敗の対処法が見えてこないわけです。奏法的に難しいのなら、その失敗しやすい部分は、少し別の弾き方にしてみるとかでも良い場合もあるしねぇ。

だからまず、自分の生活の中で「失敗してもええやんか。すべては練習なんやから」という雰囲気や気分をたくさん作っておくことだと思うのです。仕組みとして「失敗してもかまわない」環境を作っておかないとアカンやろなぁと思うのです。

ウクレレって、もともと、楽器として失敗作というか(笑)、まともにベース音もつけられない楽器で、そこがまた楽しいんですね。だから、このウクレレのように、「もともと失敗している」というような仕掛けを生活の中に仕込んでおかないとなぁって思います。

ともあれ、この「こころめくり」は、ほんとうに「自分の失敗をみつめる」日記でして、誰に対して書いてるかというと、まさに自分に対して書いてるのですね。
なので、よく読み返しております。

自分の心の中の問題で、オープンにして良いところを、「読まれても良い」というつもりで外に出すと、そこからさらに発展して、自分の再発見とかもあるしねぇ。
日々成長です。