明日は永遠にやって来ない?
明日は永遠にやって来ない、という考え方があります。
「明日がやって来た時は、それは今日になっている。だから今日という日は永遠にやって来ないのである。人間が行動できるのは、っねに『今日』だけなのだ。だから今日を精一杯生きましょう。」という話なのだけど、どうも、僕は、この考え方があまり好きではない。
何故なら、人間が心豊かに生きるためには、「人生」全体に対する信頼感のようなもの、「全体観」と言われるものが必要だと思うからなのです。
今日だけを生きていて、豊かな成長があるとは思えない。
やっぱり3年後、5年後、10年後、そしてなにより「豊かに死んでいく自分」をイメージしていなくて、安心して毎日を過ごすことはできないように思うのだ。
「こんな死に方をしたいなぁ」と、キチンと願っていないと、キチンと死ぬことができないように思う。
それと、何より思うのが、「1年を越えた長期に渡る計画の大切さ」です。
これはねぇ、本当に大事。
みんな、なんでも計画するけど、まぁたいてい「一年で」くらいまでなんですよね。「三年かけてやってみる」という事をしない。一年やってみてダメだったら諦めるとかね。そういうのが、ものすごく多いんですよ。
でもね、なんでもそうなんですが、一年ではたいしたことはできないんだけど、三年続けてみると、予想外にいろんな事が実現するっていう事は多いわけです。
これ、ほんとうにすごいんですよ。
一年じゃ無理だけど、三年くらいかけると「そこそこいけてるやん」ってなってる事って、本当に多いんです。
だから、最初から「三年で」とか、三年計画にしてしまうとかするといいんですよね。何をするにしても。
で、「こんな計画だと、自分にはちょっと難しいかな」くらいの目標の方が、実は「難しい」「そう簡単にできるわけがない」と思っている分長続きもするし、努力もするので、いつのまにか実現したりします。
僕の場合で言うと、いろいろありますが、ウクレレかなぁ。
ホント、最初はたった一曲をひたすら弾いてただけだもんなぁ。それを延々三年くらいやってた。
さすがにそこまで続けると、必然的に次のステップに移りたくなるわけですよ。人間。
すると次のステップに移るのがつらくない。楽しい。
そういうことなんですね。
だから「今日だけを見る」なんてことはしない方がいいと思うのですよ。遠い夢、三年後、五年後をイメージした上での「今日一日」でないと、やっぱりそれは「その日暮らし」で、つらいものにしかならないように思うのですよ。